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サラリーマンの鶏肋随想

大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの。サラリーマンに哲学は必要か。

仕事は人生の目的を達成するための一つの手段に過ぎない ~映画「いまを生きる」~

鶏肋集(随想)

サラリーマンとして仕事をしていると、どうしても直面することになる理不尽なことや憤りを覚えること。その度に悲しい気持ちになったり、やりきれない気持ちになったりしながら毎日を過ごすというのは、もはや全てのサラリーマンの宿命なのかもしれません。

 

仕事に思い悩み、時には会社に行く足取りも重くなってしまうことも少なくはない今日この頃、ふと「どうして仕事をしているんだろう?」という考えに憑りつかれたことはないでしょうか。

 

もちろん「食べていくため」というのが純粋な理由でしょう。しかし、この感覚をもう少し掘り下げて考えてみると、一つの明確な回答が浮き彫りになってきて、最近は自分自身を少し励ますくらいまでにこの考えを整えることができてきました。

 

それは、

「仕事はあくまで人生の目的を達成するための一つの手段に過ぎない」

つまり、

「手段に過ぎない仕事にいちいち思い悩むのではなく、その先の自らの目的についてもっと思い悩んだ方がよいのではないか」

ということです。

 

そんなの当たり前じゃないかと思われる方も多いかと思いますが、どうも愚鈍な僕はこの考えに至るまでサラリーマン生活を数年費やすことになってしまいました。このように考えてみると、不思議と目の前の仕事というものが軽く感じるようになります。

加えて、仕事以外にもこのように「手段」に過ぎないものがいつの間にか「目的」にすり替わってしまっているということは様々な生活の場面であるような気がしています。

※例えば、何かを購入するため、何かを実現するため(目的)にお金を貯めていた(手段)はずなのに、いつの間にかお金を貯めること自体が目的(手段=目的)になってしまう等。

 

そんな考えのヒントを与えてくれたのが、故ロビン・ウィリアムズ主演の映画「いまを生きる」(原題:Dead Poets Society/1989年・アメリカ)です。

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1959年のアメリカ、厳格な全寮制の名門校に一人の破天荒な教師(ロビン・ウィリアムズ演じるジョン・キーティング先生)が赴任してくるところから物語は始まります。

伝統と規律に縛られた生活を送る生徒たちに、キーティングは「先入観にとらわれず、自分の感性を信じて生きろ」と型破りな授業を通じてメッセージを送るのですが、その場面の一つに、キーティング先生が

「医学、法学、経営、工学は生きるのに必要な尊い仕事だ。だが詩や美、ロマンス、愛は我々の生きる糧だ。」

と生徒たちに語りかける場面があります。

 

僕は何となくこの言葉を「前者=手段、後者=目的」という構図で捉えました。もちろん、詩や美が「目的」とは限らず、糧だって「手段」に過ぎないかもしれません。ただ、文学部出身者として在学当時から「就職活動を前提にした現代の日本の大学という仕組みの中で、文学や史学、哲学を学ぶ意義」ということを考えていた僕にとっては、何だか一つの答えが出たようで非常に嬉しく感じたのだと思っています。

 

僕の場合、無機質な仕事の中で一見関係のない文学的・哲学的な感覚や満足感を得るのが一つの目的なのかもしれません。

 

映画はキーティング先生に感化された生徒たちが、それぞれの求める道を歩み始めたかのように見えた時に起きた悲しい事件によって、元の伝統と規律に引き戻されることとなるのですが、事件の責任を取って学校を去ることになったキーティング先生を、最後に生徒たちがささやかな抵抗(?)をもって見送る場面で終わります。

 

ちょっと内容が逸れてしまいましたがこの映画、非常に考えさせられ、何度も繰り返し見てしまいます。名作です。

 

 

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